著者は翻訳家で、私は「海を照らす光」を読んだことがありました。それも素晴らしい訳でした。
この「雑な読書」は、HM/HRの月刊誌「BURRN!」のコラムに連載している書評(彼女は書評エッセイと言っています)の中から、前半の1994年から2004年までに書かれたものうち50冊が紹介されています。
「はじめに」でこのような文章がありました。
書評というよりも、その本にインスパイアされたことやその時々に考えていたことなどを綴ったエッセイに近いので、書評エッセイというほうがいいかもしれません。
たしかに、取り上げた本についてよりもその他のことのほうが多く書かれたページも多くて、またそれが面白かったです。
特に印象に残った文章を書き出してみました。
本は一人で読むべきものだ。そして一人で感慨にふけるべきものなのである。したがって、読書の面白さ、楽しさ、怖さを知っている人は、一人でいることをことのほか好むタイプである。もっと過激なことを言ってしまえば、本を読んでいるときだけが本当に生きていると実感できるタイプなのである。生きている人間よりも無機質な活字に信頼を寄せる、いわば、変人の一種なのである。
問題なのは、わたしがわけもなく片仮名が嫌いだという点にある。片仮名はご飯のなかに潜んでいる砂か石のようなもので、その歯触りのひどさに暗澹となる。したがって、わたしは片仮名を使わざるを得ないときには、できるだけまぜご飯の中に入っている椎茸か胡麻のような錯覚をしてもらうように努めているのだが、なかなかそうはいかない。
読書から快楽を得ている人がこの世の中にどれほどいるのかはわからないが、わたしにとって読書とは快楽というよりも栄養剤もしくは精神安定剤のようなものである。忙しかった日はなおさらだが、夜寝る前には必ずなんらかの本を読む。読まないと眠れないのだ。本当はそういう病気かもしれない。物心ついたときから備わっていたこの習癖について、真っ向から取り組んだことはなかった。ところが、三年前にひょんなことから極度の躁状態になった友人に、「本を読むなんて、怠け者のすることだよ。どうして外に出て意欲的に生きないんだ? 本に時間を割いている奴はろくでなしだよ」と言われて、本当に目から鱗が落ちる思いをした。
五歳の娘がある日こう言った。「おかあさん、うちは本があるから貧乏なんだよね」と。わたしは二の句が継げなかった。子どもだから、どのような考えを巡らせたのかはわからないが、確かに我が家には本があるし、確かに我が家は貧乏だ。しかしその二つの事実に因果関係があるとは、これまでわたしも気づかなかった。そうなのかもしれない。本があるから貧乏なのだ。本があれば読んでしまう。読んでいたら仕事ができない。仕事をしなければ貧乏になる。本は貧乏神なのかもしれない。いまさら、心のなかでは貧乏ではないよ、などという嘘でごまかしたところで何も始まらない。娘はある真実を見抜いてしまったのだ。この事実は思いのほか重たい。
それから、こちらは村上春樹、柴田元幸著「翻訳夜話」に出てきた村上さんの言葉です。
創作の文章にせよ、翻訳の文章にせよ、文章にとっていちばん大事なのは、たぶんリズムなんですよね。
語学力というのは長く続けてやっているうちに少しずつついてくるところはあります。(略)でも小説的なセンス、感覚、あるいは物語に対する理解力というのは、やっていればそのうちについてきますよというものではないような気がします。こればかりは、ある程度もって生まれたものがあります。
だそうで「なるほど〜」と思いました。
この本の最後に著者と書評家である豊崎由美さんの対談が載っています。
その中で驚いたのは、著者が大学時代の1年間、大学には行かずに毎日1冊本を読んでいた、ということ!
これがその後の著者の仕事に大きな貢献をすることになったそうです。
したくてもなかなかマネできることではないですねぇ。
この本に紹介されているうち10冊くらい借りて読んだり挫折したりしました(^^;)。
紹介されている本について知る、ということ以上に中身の濃い本でおススメです!
多肉植物「桜吹雪」の花 ↓が咲きました。さっき気がついてiPadで撮影しました(^^)。