この本はタイトルに惹かれて借りました。2013年の11月発行になっています。
短編集で、5つの話しからなっています。
普通の小説かな、と思うと、そこに 「?!」 が混じる不思議な感覚の作品集です。
中島京子さんの本では、「小さいおうち」 と 「花桃実桃」 の2冊しか読んでいないのですが、このようなちょっぴりファンタジックなものもお書きになるとは知りませんでした。
表題になっている 「妻が椎茸だったころ」 は、一体どういう意味だろう、って思いますよね。
あらすじはこうです。
7年前、くも膜下出血で突然妻を失った泰平は、妻が生前に申し込んでいた料理教室に行く羽目になります。
そこは申し込んでもなかなか当たらない個人指導の教室でした。
「椎茸を甘辛く煮たものを持って来い」 と言われても、椎茸が台所のどこにあるかもわからない主人公。
椎茸を煮るにも一悶着あったものの、それを持って教室を訪ねるわけです。
そこで 「散らし寿司」 を一緒に作りながら、主人公は先生につい 「妻は椎茸だったことがあるそうです」 と口に出してしまいます。妻が残した料理ノートに書いてあったことだから。
先生は少しも驚かず、自分がじゅんさいであった時の情景を延々と語り始めるのです。
その描写が素晴らしく、ああ、池の中のじゅんさいから見た景色はこういうものなのか、と感嘆するほど!
その後、主人公は、妻の料理ノートに書かれた料理を作り始めます。
7年の間に、娘は結婚、娘が生まれましたが2年前に離婚をします。泰平は、妻が生きていればやったであろうことを彼らのためにしてやるんですね。中でも大きかったのは料理のようです。
ひな祭り前の日曜日に、「おじいちゃん!」 と叫んで孫娘が駆け込んできます。
娘は 「散らし寿司は、おじいちゃんのが、いちばんおいしい」 と。
最後の部分 ↓を読むと、何度読んでもウルッときてしまいます。
長いこと食事を作っているうちに、泰平も、料理についてだんだんわかってきたことがあった。
いまでは、泰平は自分が椎茸だったころのことを思い出すことができる。
櫟の原木の上に静かに座って、通り抜ける風を頬に感じている姿を思い浮かべる。
記憶によれば、一本ではなく、もう一本、寄り添って揺れる椎茸がいる。